南ゆうこ yuko minami

一生おなじ歌を 歌い続けるのは

だいじなことです むずかしいことです

あの季節がやってくるたびに

おなじ歌しかうたわない 鳥のように

ソナチネの木 / 岸田衿子 より

100年の間にどんな歌をうたってきたんだろう

娘がオルガンに名前をつけてくれた。

「百年草」

ありがとう

やすらかさとは 懐かしさである
そのなかでひとは 何かを手放せる

ほんとうは 手放したくて
出会っていた

手放すために
狂おしく 愛していた


なつかしさ「ひかりのなかのこども」より/稲尾教彦

今年、詩人で語り研究家稲尾教彦さんの10年ぶり2作目の詩集「ひかりのなかのこども」が
うまれました。
6月に行われたのりへいさん(稲尾さん)とのふたつの朗読会では、この新しい詩集の中からひとつ読ませていただきました。

忘れてはいけません
近所の洋品店で買った素敵な青い体操服

忘れてはいけません
だれにもおすすめしなくても
思わず膝を抱えて胡坐を組みながら聴きたくなる
ガ と グ しか思いつかず
それっぽい言葉をすっ飛ばして
だいっすき また来ますって言ってしまう 
骨まで震える小さなライブ

忘れてはいけません
先生にバツをつけられるねんな
でもそれが楽しいと思うんでしょ 字のあそび

だれかの素敵は
じぶんの素敵とちがうこと

そこに眠る
ちいさな宝石

むかしむかし
初めて中国に行ったころ
トイレにドアはなかった

ほんとなの?
まるみえじゃないか

ないものはなかった。

インドに行ったとき
それはそれは
摩訶不思議だった。
わけがわからない
わたしひとり逆立ちしてるような気分

もしくは逆か。

どこだったか
ミイラ博物館には村で亡くなった人たちのミイラ

つまり、これはお墓なのかな。

せかいは
あべこべなところだった

でも、本当は自分の知らないせかいというだけ。

そしたら 
ここの人たちは
どんな視線で生きてるんだろうと思った。

帰ってきたら
私たちの住んでる日常もまた
あべこべに思えた。

思ってる以上に
せかいは
あべこべだった。

ずっと以前、ピンクの猫を描いた。

ピンクの猫なんていない
そんなのいるわけないよ

どうかな
いるかもしれないよ

もらわれていった
ピンクの猫を思うとき
自分が少し温くなる。


子供は子供だった頃

腕をブラブラさせ

小川は川になれ 川は河になれ

水たまりは海になれ と思った


子供は子供だった頃

なにも考えず 癖もなにもなく

あぐらをかいたり とびはねたり

小さな頭に 大きなつむじ

カメラを向けても 知らぬ顔


ベルリン・天使の詩から
“子供は子供だった頃”.

詩.Peter Handke
映画監督:Wim Wenders

好きな詩


眠る蓮の夢
深い眠りの底

水底に広がる
透明の空

波紋の音も 届かぬ静けさ


言葉にすることでわかりあえることがあります。
声を使うことでしか伝わらないことがあります。
けれども言葉や声の背後から感じられる、人がそこにいるだけで一緒に振動するもの。
どんな気持ちで生きてきたのか。言葉ではなく実際に会うと無意識に感じ取ることができるもの、そういったものに安心や温もりを覚えることはないでしょうか。わたしたちは、無数の人たちに直接的に間接的に支えられ、その見えないつながりの糸に疲弊しながら渇望もし、人は人のなかで影響しあって生きています。
「人が言葉に表しえないものに耳を傾けようとする」
ひとつひとつの公演を通して人と関わるなかで、また作品を通して、他者にも自分のなかにも耳を澄まそうとした10年間でした。コロナ渦でつながりを断たれた期間を経て、AIの時代になっても人間にしかできないことはこういうことではないでしょうか。

みなさまの心が休まるような時間になればと願っています。

「ちいさきもの、その祈り」に関わってくださった方々にお礼申し上げます。
足をお運びくださった皆さま、ありがとうございました。

ちいさきもの、その祈りvol.2
―詩と物語でつなぐ はるかな湖- 公演に寄せて


娘の散髪
リクエストの髪型が斬新で念を押すが
それでいいと言うので切ってみる。

とてもいいね
こどもはいつだって痛快で柔軟

うらやましくなって
鋏を入れる。
後ろなんて見えないから切りすぎる。

どうしようかと思っていたら
大きな息子がバリカンを入れてくれた。

さっぱりと
散髪日和


うぶごえ

人としてうまれたわたしたちの 
はじめの声がそこにあった

まだ 個は内包されたまま
どこで生まれても、どんな性に生まれても

生きることのなかった声を聴き
いのちのはじまる声を聴く

ひかりのなかに

先日、軽トラに乗りながらこの感覚に覚えがあるのに思い出せず、しばらくして思い出した。これは旅のあいだの感覚に近い。
オートマではあるけれど、快適な空間、便利さ、手厚く守るものがなにもない。

鍵を挿して回さないとエンジンがかからない。
鍵を見失うことがない。

音楽を聞く環境もなし。
今日は何を聞こうかなんて考えない。

窓は手動。
こどもの手を挟む心配もない。

運転席の座席を上げるとエンジンが丸見え。ドアも薄い。ハンドルなんて抜けそうに細い。

でも、汚れても傷がついても、靴が土だらけでも、軽トラだからかまわない。
軽トラはそれ以上にはなりえない。どこから見ても白い軽トラはほかのものになる隙間が1ミリもない。

そこがいい。

大きな窓はよく見渡せるけれど、ぶつかったときにはボンネットのないフロントガラスは目の前にある。
それは車に乗ることが、危険が伴うことを忘れずにいられる。

旅のあいだ、荷物は最小限。
捕られて困るものはパスポートくらい。服も2.3枚で洗えばいいし、最後は手放して帰るくらいのくたびれた服でいい。必要な時はその場で買えばいい。

とにかく、なくなって困るものといえば生きていることくらい。
そのうち、性別も年齢も忘れるほどの軽やかさで、人や世界に出会うような気持ちになる。

こどもを生んで旅からすこし離れ、なくなって困るものは自分のいのちだけではなくなった。それはそんなふうに思ってもらっていたことを知ることでもあった。

軽トラに乗ったら思い出した。

この感じ

冬の静けさ

頬杖ついて 春風を待つ日々のはじまり

外は寒く 心あたたか

ボリビアのバスの中で 隣に座った人が言う

娘を理解できないの 

チベットの乾いた家の前

洗濯する母親のそばから離れないこども

人の営みは 変わらず

この世で、人はほんの短い時間を、
土の上で過ごすだけにすぎない。
仕事をして、愛して、眠って、
ひょいと、ある日、姿を消すのだ。
人は、おおきな樹のなかに。

アメージングツリー 長田弘 より